ひふみ神示を写します。
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喜べば喜ぶ事出来るぞ、
悔めば悔む事出来るぞ。 私は今、精神的にちょっとばかし苦しいのですが、 鏡に映った自分の顔を見たときに、 「うれし、うれしぞ。」の言葉がふと浮かんだとき、 無表情だった鏡の中の私がニコリとしていました。 そして先ほどブログを更新しようと 『ひふみ神示』を開いた時に 目に飛び込んできたのが上記の言葉です。 なんだか 日月神に見守られているような気になります。 |
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この道は中行く道ぞ、
左も右も偏ってはならんぞ、 いつも心にてんし様拝みておれば、 何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、 我が我がと思うてゐると、 鼻ポキリと折れるぞ。 『我が我が』の心が偏った状態にあると、 思いもよらぬ不幸な出来事に逢ってしまうということでしょうか。 だとすれば、 不幸な出来事は、心の偏りを正すための機会を与えられたということになり、 その機会を生かせるかどうかは自分自身に懸かっているということなのでしょう。 高次元からの視点で捉えることが出来るもう一人の自分を持つことができたら、 難局も難局ではなくなるのかもしれません。 『何もかも楽にゆける』のでしょう。 しかし、私の場合もう一人の自分の視点も、高くないのが現実です。 ありがたい『鼻ポキリ』は、まだまだ続くのである。 |
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臣民の肉体の病ばかりでないぞ、
心の病も同様ぞ、 心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、 身内で入院中の者がいる。 大動脈解離という病気です。 私には初耳のこの病は、 三層の膜でできている血管壁に傷が出来て、 血液が傷から膜内に入り血管壁の内側の膜と膜を裂くというものです。 発症は高血圧と関係があるといわれているのだそうですが、 兆候はなく、患者本人は突然の非常に強い痛みに襲われるのだそうです。 この大動脈解離というのは発症部位によっては致命的であり、 また、発症部位が致命的でなくても、 血管壁に入り込んだ血液の流入により血管が破れてしまえば大出血を起こして 死亡することがあるのだそう。 身内の者は発症部位がよかったのと、 血管壁の中で血栓が早くできたので生きています。 大難が小難になったのかもしれません。 私は医師に造影剤を大動脈にいれたCTを見せてもらいました。 まず、大動脈解離部分の説明があり、 その後の会話 医師 :「あ〜こんなところに動脈硬化がありますね。」 私 :「白く見えてるところは何ですか?」 医師 :「動脈硬化したところが石灰化してるんです。」 頭が固いと、動脈まで硬くなるのでは?と私は内心思ってしまいました。 この私の身内は、怒りっぽくて一緒にいると私は気疲れするのですが、 本人にしてみると、自分は明るくユーモアがあって楽天的で考え方が柔軟なのだそうだ。 自分のネガティブなところを直視しようとしないので本人評価はそうなるのだろう。 しかし、運良く生かされているということは、 生き方を変えるためにの機会を、天が与えてくれたように私には思えるのです。 『改心ぞ』です。 大動脈解離は血圧の管理が重要な病気です。 それは退院後も必要になります。 怒りや緊張は、身体によくありません。 日常生活では食事と運動が鍵となるのでしょうが、 それよりも大きな課題は、 もう一人の自分を育てて、自分を客観的に見るようすることではないでしょうか。 「暇なら読んでみたら」と、 スマナサーラ師の『現代人のための瞑想法』がウチにあったので病室に置いてきました。 読む読まないは別にして、 退院までの4週間で、当人は何かを悟れるでしょうか。 |
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足地に着けよ、草木はもとより、
犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。 猫や犬のように素足で土の上を歩くことは、 私には年に一度あるかないかのことです。 気功では、 地の気を持ち上げて上丹田・中丹田・下丹田に入れるという動作があるのですが、 素足で土の上を歩いたら、 地の気をある程度は自然に取り入れることが出来るのかもしれません。 私たち人が地球上で生きるためには、 土からの恵みを食物として取り入れるだけではダメなんですね。 |
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おそし早しはあるなれど、
一度申したこと必ず出て来るのざぞ。 臣民は近慾で疑ひ深いから、 何も分らんから疑う者もあるなれど、 この神示一分一厘ちがはんのざぞ。 「おそし早しはあるなれど、 一度申したこと必ず出て来るのざぞ。」 この文は、神示についてだけを云っているのだろうか。 私たちが口にする他愛もない言葉にも、 現実を引き寄せる力が秘められているのだと聞き及び、 私は思ったことを安易に口にするのは止めるようになりました。 けれど、よからぬ発想は、 「これは言わんとこ。」と自制をする前にすでにあるので、 口に出さないことで、現実化を回避できるのならありがたいのだけれど、 果たしてどんなものなんでしょう。 |





